LOGIN「——おはよう」
低い声が、部屋に響く。
掠れて、それでいて艶のある声。耳の奥に染み込むような響き。まるで恋人が枕元で囁くように、柊木蓮の声が私の朝を連れてくる。
「今日も一日……僕と一緒に頑張ろうか」
水野美月——三十一歳。都内の出版社で編集アシスタント。彼氏いない歴イコール年齢。最後に告白されたのは大学時代。もう十年も前のことだ。
スマホの画面には、柊木蓮の笑顔が映っている。
三年前のイベント特典でもらった目覚ましアプリ。何百回と聞いた声なのに、毎朝この声を聞かないと一日が始まらない。
——もう一度。
指がスマホに伸びる。
もう一度、あの声を。
「おはよう」
再生。
低音が身体の芯まで響く。
喉が震える。胸の奥が疼く。
これが、私の生きる理由だった。
五年前、深夜アニメ「黎明の騎士団」で初めて聞いた、あの声。
蓮くんが演じたのは、主人公の親友である騎士・アルベルト。正義感が強くて、不器用で、大切な人を守るためなら自分を犠牲にする——そんなキャラクター。
最終回。
アルベルトが主人公を庇って倒れるシーン。
『……行け。お前は、お前だけは……生きろ』
掠れた声。
呼吸の音。
消えゆく命の儚さを、声だけで表現していた。
あの日、私は号泣した。
アニメのキャラクターの死で、あんなに泣いたのは初めてだった。
それから——柊木蓮という声優を追いかけるようになった。
三十過ぎて何やってるんだろうと思わなくもない。
でも、蓮くんの声を聞いていると、灰色だった日常に色がつく気がした。
会社で嫌なことがあっても、帰りの電車で蓮くんのボイスドラマを聞けば頑張れる。
休日に予定がなくても、蓮くんの出演する朗読劇の配信を見れば孤独じゃない。
誰にも必要とされてない気がする夜も、蓮くんの「おやすみ」で眠れる。
——推しの声で、生きている。
「……ダメだ、起きなきゃ」
声に出して、ようやく身体が動いた。
時計を見る。
午前八時。
出社時刻まで三十分しかない。
飛び起きて洗面所に向かう。イヤホンからは蓮くんのラジオが流れている。
『今日のメール。ペンネーム「蓮くんの声で目覚めたい」さんから……って、これ毎週送ってくれてる人だ。ありがとうございます』
私が投稿したメール。
読まれた時の感動を、今でも忘れない。
東京に来たのは九年前。
憧れだった出版社に就職が決まって、故郷の奈良を出た。
一人暮らし。
ワンルーム。
夢を追いかけて上京したはずなのに、気づけば編集アシスタントのまま三十一歳になっていた。
電車に飛び乗って、ようやく息をついた。
スマホを開く。イヤホンを耳に差し込む。
蓮くんの声が、また流れてくる。
——私は、推しの声で生きている。
会社に着いて、デスクに座る。
画面を開くと、メールが山積みになっていた。
「水野さん、この原稿の確認お願いできる?」
先輩の声。
「はい」
返事をして、ファイルを受け取る。
淡々と仕事をこなす。
昼休み。
スマホを開いて、Twitterをチェックする。
タイムラインには蓮くんの情報が流れてきた。
『柊木蓮、新作アニメ出演決定!』
いいね、をつける。
リツイート。
他のファンのツイートを眺める。
みんな、同じように蓮くんを愛している。
私は、その中の一人でしかない。
——それでいいんだ。
そう思っていた。
あの日までは。
夜、帰宅してベッドに倒れ込む。
スマホを開くと、通知が来ていた。
『【当選】柊木蓮 朗読劇イベント「月夜の恋文」お渡し会参加権』
画面を見つめる。
何度も見返す。
「……当たった」
声が震えた。
三ヶ月前に応募した、朗読劇とお渡し会のセット企画。
倍率五十倍以上と言われていたプラチナチケット。
「当たった……私、当たったんだ」
一人暮らしのワンルームに、私の声だけが響く。
すぐに故郷の幼馴染に電話をかけた。
呼び出し音が二回鳴って、繋がる。
「もしもし?どうした、こんな夜に」
浅井康太。
奈良で育った幼馴染で、今でも時々電話で話す。
「康太、聞いて」
受話器の向こうで、康太が笑う気配。
「声震えてるけど」
「蓮くんのイベント、当たった」
「……マジで?」
「マジ」
電話越しに、康太の驚いた息遣いが聞こえる。
「すげー。美月、運使い果たしたな」
「うん……」
「で?お渡し会で何渡すの?」
「手紙……書こうと思って」
「ちゃんと渡せよ。緊張して倒れんなよ」
「倒れないよ……多分」
「多分かよ」
電話越しに、康太の笑い声が響いた。
電話を切ってから、私はベッドに寝転んだ。
イベントは二週間後。
それまでに、何を準備すればいい?
何を話せばいい?
というか——蓮くんを目の前にして、私は正気を保てるんだろうか。
「……大丈夫」
呟く。
でも、心臓はうるさいままだった。
朝が来た。けれど、私はベッドから起き上がれなかった。会社に休みの連絡を入れると、上司に電話が回された。そして、休職するようにやんわりと勧められる。孤立した会社には、もう行けない。私は休職を受け入れた。辞職を前提にした休職。心が、重くなる。康太との別れの電話から、何日経ったのだろう。三日?五日?もう、わからない。スマホの画面を見る。通知はたくさんある。でも、どれも康太からじゃない。全部、蓮くんのファンからの罵倒。SNSのメンション通知。「精神病」「嘘つき」「康太さんが逃げ出すのも当然」……ああ。そうなんだ。私が悪いんだ。リビングに行く。床には、箱が二つ。蓮くんから送られてきた、写真の箱。私の日常を撮った写真。康太の工房を撮った写真。全部、蓮くんが撮ったもの。全部、証拠。でも、警察は信じてくれなかった。山田刑事は、私を疑った。『あなたが柊木さんに執着してるんじゃないですか?』私が?執着?笑えない。スマホが鳴った。知らない番号。また、嫌がらせの電話だろうか。でも、もう何も怖くない。康太もいない。誰も信じてくれない。電話に出る。「もしもし」声が、かすれていた。『水野美月さんですか?』女性の声。落ち着いている。優しい。「……はい」『私、弁護士の高橋麻美と申します。ストーカー事件を専門に扱っています。水野さんの件で、お話があります』弁護士?なんで?「誰が……?」『それは、お会いした時に。今から、お時間いただけますか?』私は、何も考えられなかった。ただ、その声が優しかったから。「……はい」『では、渋谷の事務所にいらしてください。住所をお送りします』電話が切れた。すぐに、メッセージが届いた。住所と、地図。行こう。行くしかない。もう、何も失うものはない。───渋谷の雑居ビルの四階。「高橋法律事務所」という看板。インターホンを押す。すぐに、扉が開いた。「水野さん、お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」黒いスーツを着た女性。三十代後半くらい。優しい笑顔。応接室に案内される。清潔で、静か。コーヒーが出された。「お疲れ様です。突然のご連絡、驚かれたと思います」高橋弁護士は、私の前に座った。「でも、まず——これを。康太さんから、預かってい
翌朝。目が覚めると、体が重かった。ほとんど、眠れなかった。目を閉じるたびに、蓮くんの顔が浮かぶ。あの冷たい目。あの優しい笑顔。全部、恐怖。スマホを見る。午前9時。会社に行かなきゃ。でも——体が、動かない。もう、限界かもしれない。電話をかける。「もしもし、水野です……」「水野さん、どうしました?」受付の声。「体調が……悪くて。今日も、お休みさせてください」「わかりました。お大事に」電話を切る。——また、休んだ。これで、三日連続。もう、戻れないかもしれない。ベッドから起き上がる。リビングに行く。テーブルの上に、あの箱。蓮くんから届いた、写真。——警察に、持っていかなきゃ。——今日、行こう。でも——昨夜、蓮くんに会ってしまった。自分から、会いに行ってしまった。警察は、それをどう判断するんだろう。『自分から会ったんですよね? それなのに、ストーカーだと?』そう言われるんじゃないか。不安が、胸の奥に広がる。でも——行くしかない。この写真は、証拠。蓮くんが私を監視していた、証拠。着替える。鏡を見る。ひどい顔。でも、もう気にしない。箱を持って、マンションを出る。エレベーターに乗る。エントランスに出る。曇り空。今にも雨が降りそう。警察署に向かう。歩きながら、周りを見る。また、視線を感じる。誰かが、見ている。振り返る。誰もいない。——気のせい?——それとも……。警察署に着く。受付で、名前を告げる。「山田刑事に、お会いしたいんですが」「少々お待ちください」待合室で、待つ。箱を、膝の上に置く。手が、震える。——信じてもらえるだろうか。——今度こそ、信じてもらえるだろうか。しばらくして、山田刑事が現れた。「水野さん」少し、驚いた顔。「また、何か?」「はい……証拠が、あるんです」山田刑事が、応接室に案内する。二人で、座る。「証拠、というと?」「これです」箱を、テーブルに置く。蓋を開ける。中の写真を、取り出す。「蓮くんから、届いたんです」山田刑事が、写真を見る。一枚、一枚。表情が、変わらない。「これ、全部水野さんですね」「はい……」「いつ撮られたか、わかりますか?」「最近です。ここ数週間の……」山田刑事が、メモも確認する。『美月さん、毎日見てます。毎日、あな
どれくらい、床に倒れていたんだろう。気がつくと、部屋は暗くなっていた。窓の外が、夕暮れ色に染まっている。体を起こす。頭が、ぼんやりする。床に散らばった写真。全部、私。監視されていた、私。——これ、警察に持っていかなきゃ。——証拠だ。——やっと、証拠ができた。震える手で、写真を拾い集める。箱に戻す。メモも、大事に箱に入れる。——明日、警察に行こう。——これを見せれば、信じてもらえる。少しだけ、希望が見えた気がした。ソファに座る。割れたスマホを手に取る。機内モードを、解除する。すぐに、何件も通知が来た。でも、着信は止まっていた。——やっと、諦めたのかな。メッセージを確認する。康太からの連絡は——ない。心臓が、痛む。でも、仕方ない。康太は今頃実家で休んでいる。私のことなんか、考えたくないだろう。SNSを開く。タイムラインを見る。また、蓮くんの話題ばかり。でも——もう、あまり心に響かない。麻痺してしまったのかもしれない。時計を見る。午後6時。お腹が空いている。でも、やっぱり食欲がない。冷蔵庫を開ける。康太の作り置き料理。少しだけ、食べよう。無理やり、口に運ぶ。味が、しない。でも、食べる。生きるために、食べる。半分ほど食べて、やめた。もう、限界。水を飲んで、ソファに戻る。窓の外を見る。暗くなっていく空。向かいのマンション。——また、あの窓に明かりがつくんだろうか。——また、蓮くんが現れるんだろうか。不安が、胸の奥に広がる。そのとき——スマホが震えた。知らない番号。また、嫌がらせの電話?でも——出てしまう。「もしもし……」「美月さん」蓮くんの声。心臓が、激しく跳ねる。「写真、届きましたか?」「……」声が、出ない。「気に入ってくれたかな。僕が、一生懸命撮ったんです」蓮くんの声が、優しい。でも、ぞっとする。「美月さん、辛そうですね」「……やめて」やっと、声が出た。「彼氏とも別れて、会社でも孤立して。でも、大丈夫」蓮くんが、囁くように言う。「僕が、いますから」「やめて……」「美月さん、今夜会いませんか?」息が、止まる。「久しぶりに、二人で話しましょう。昔みたいに」「嫌だ……」「そう言わないで。美月さんも、本当は寂しいんでしょう?」蓮くんの声が、少し低くなる
電話が、鳴り止まない。床に投げたスマホが、震え続けている。画面が割れているのに、まだ着信が来る。——もう、無理。——本当に、無理。立ち上がる。床に落ちたスマホを拾う。画面に、細かいヒビが入っている。でも、まだ動く。着信履歴を見る。50件を超えていた。全部、知らない番号。留守電も、たくさん入っている。聞きたくない。でも——確認しなきゃ。震える手で、留守電を再生する。『水野美月、お前のせいで蓮くんが——』消す。次の留守電。『いい加減にしろよ、メンヘラ女』消す。次。『死ねばいいのに』消す。次。次。次。全部、同じ。誹謗中傷。脅迫。罵倒。手が、震える。——電源を切ろう。でも——康太から連絡が来るかもしれない。電源を切れない。仕方なく、機内モードにする。着信音が、止まる。やっと、静かになった。スマホを、ソファに置く。でも——静かすぎる。一人。完全に、一人。時計を見る。午前11時。お腹が空いている。でも、食欲がない。冷蔵庫を開ける。中には、康太が作り置きしてくれた料理。でも——もう、康太はいない。冷蔵庫を閉める。水だけ、飲む。ソファに戻る。テレビをつける。音が、欲しい。誰かの声が、欲しい。ワイドショーが流れている。芸能ニュース。そのとき——画面に、蓮くんの顔が映った。心臓が、跳ねる。『声優・柊木蓮さん、三年ぶりの復帰! 新作アニメでメインキャスト決定!』アナウンサーが、明るい声で言う。『三年前のストーカー事件で活動を休止していた柊木さんですが、この度完全復帰となりました』画面が、蓮くんのインタビュー映像に切り替わる。蓮くんが、カメラに向かって笑っている。優しい笑顔。でも、私には——その笑顔が、恐ろしい。『三年間、いろいろありましたが、ファンの皆さんの応援のおかげで戻ってくることができました』蓮くんが、丁寧に頭を下げる。『これからも、精一杯頑張ります』スタジオが、拍手に包まれる。コメンテーターが、言う。『柊木さん、本当に大変でしたよね。あの事件、結局被害者の方が精神的に不安定だったという話も……』『ええ、そういう噂もありますね。でも、柊木さんは一切恨み言を言わず、前を向いて頑張ってこられた』『素晴らしいですね』私の手が、震える
その夜。康太は、リビングのソファで寝た。いつもなら一緒のベッドなのに、今日は違う。私は、一人でベッドに入った。冷たいシーツ。康太の温もりがない。目を閉じても、眠れない。康太の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。『少し、距離を置こう』距離を置く。別れるわけじゃない、と康太は言った。でも——これが、終わりの始まりだって、わかる。もう、康太の心は離れ始めてる。私のせいで、康太の工房が傷ついてる。注文のキャンセル。SNSでの誹謗中傷。全部、蓮くんの仕業。蓮くんが、私と康太を引き裂こうとしてる。そして、成功しつつある。涙が、枕を濡らす。声を殺して、泣く。リビングにいる康太に聞こえないように。どれくらい泣いたんだろう。気がつくと、時計は午前3時を指していた。スマホを見る。SNSを開く。また、蓮くんの話題。『柊木蓮、完全復帰! ファン歓喜!』『蓮くんの声、やっぱり最高!』『待ってた甲斐があった!』スクロールする。『被害者の女と彼氏、別れたらしい』『やっと解放されたね』『浅井康太さん、お疲れ様でした』『次は、まともな女性と幸せになってほしい』心臓が、激しく跳ねる。別れた、って。まだ、別れてない。距離を置くだけ。なのに、もう別れたことになってる。どうして?どうして、そんなに早く情報が広がってるの?誰が、流してるの?佐々木さん?それとも——まさか、康太が?いや、違う。康太は、そんなことしない。でも……。疑念が、頭の中に広がる。康太を、疑いたくない。でも、こんなに早く情報が広がるなんて、おかしい。スマホを置く。窓の外を見る。カーテンの隙間から、外が見える。向かいのマンションの窓。今日も、一つだけ明かりがついている。その窓に——やっぱり、人影。こちらを、じっと見ている。心臓が跳ねる。でも、もう驚かない。毎晩、あの人影がいる。蓮くんだ。絶対に、蓮くん。ずっと、私を見てる。私の部屋を、監視してる。ベッドから出る。窓に近づく。カーテンを、少し開ける。人影が、はっきり見える。男の、シルエット。その人影が——また、手を振った。ゆっくりと。まるで、「見てるよ」って言ってるように。背筋が、凍る。カーテンを閉める。体が、震える。——写真を撮ろう。——証拠を残さなきゃ。
翌朝。目が覚めると、康太はもう出かけていた。枕元に、メモ。『今日も朝から打ち合わせ。夜も遅くなる。ごめん。—康太』文字が、急いで書かれている。いつもより、そっけない気がした。スマホを見る。時計は、午前7時。会社に行く時間。でも——体が、重い。起き上がれない。目を閉じる。このまま、消えてしまいたい。でも——休んだら、負けだ。蓮くんの思い通りになる。無理やり、体を起こす。着替える。鏡を見る。目の下のクマが、もっと濃くなっていた。ファンデーションを塗る。でも、隠しきれない。口紅を塗る。手が、震える。マンションを出る。エレベーターに乗る。エントランスに出る。曇り空。冷たい風。駅に向かう。いつもの道。でも——今日も、背後に視線を感じる。振り返る。誰もいない。——気のせい?——それとも……。電車に乗る。座席に座る。スマホを取り出す。SNSは、見たくない。でも、見てしまう。タイムラインを開く。『柊木蓮、新作アニメ出演決定!』『蓮くん、完全復活!』『やっぱり蓮くんの声は最高!』ファンたちが、喜んでいる。スクロールする。『被害者の女、彼氏と別れそうらしい』『自業自得』『メンヘラに捕まった彼氏が可哀想』『早く解放してあげてほしい』息が、止まる。彼氏と、別れそう?どうして、そんなことまで知ってるの?昨夜の康太の態度を、思い出す。一人掛けのソファに座った康太。疲れた目。少し、冷たい声。——まさか。——本当に、別れることになるの?涙が溢れそうになる。スマホを閉じる。電車が、揺れる。会社の最寄り駅に着く。降りて、オフィスビルに向かう。エレベーターで、7階へ。編集部のドアを開ける。「おはようございます」小さな声で、挨拶する。でも——誰も、返事をしなかった。みんな、私を見て、すぐに視線を逸らす。田中さんも、目を合わせてくれない。——完全に、孤立してる。自分のデスクに向かう。座る。パソコンを起動する。そのとき——佐々木さんが、私を見た。その目が、少し勝ち誇っている気がした。——やっぱり。——佐々木さんが、情報を流してる。——蓮くんの、手先。メールをチェックする。仕事のメール。会議の案内。でも、集中できない。午前中。資料を